家族介護の難しさ

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桜の花びらが少しづつ地面を覆い、日本全体で春色の芽が育っていっている気がします。
といっても、私の桜への興味は薄れていっているのですが。
生粋の日本人なので、もちろんこの時期には特別な思い入れがありますし、桜を見ると心が圧倒的に華やかになるのですが、今年は少し桜に対しての興味が薄れていました。

というのも、嫌な周期と重なってしまったことがその要因です。

今回は、家族介護の難しさについてを説明させていただきます。
「家族介護」と「仕事の介護」の両面についてを説明するということは、この介護士目線というサイトを運営する私にとって、とても意義があります。

家族介護の背景

外から見ている介護と、中から見ている介護は大きく違います。
これは仕事としての「介護」という意味でもそうですし、家族としてする「介護」という意味でもそうです。

介護の中と外

介護は、中と外では全く別のものになります。
これを簡単に説明すると、ある程度の継続性をもった直接的な介護の経験がなければ、「外から見ている介護」ということです。
コンサルタントや介護〇〇という肩書がある方でも、ある程度の継続性をもった直接的な介護の経験がなければ「外から見ている介護」です。
これは、介護事業所でも同じで、直接的な介護の経験がなければ、それは「外から見ている介護」なのです。

まず、継続に関しては、「仕事としての介護」と「家族としてする介護」では、大きな違いがあります。
仕事としての介護では、「介護の継続」は業務として当然のことなのですが、家族介護では「継続」が思わぬ問題に結びつきます。

家族介護における「継続」

家族介護は、見えないところで多くの問題を抱えています。
代表的なところでは、遺産問題ですが、家族介護から遺産問題にならなくとも、不仲に繋がるといったことは多いのではないでしょうか?

家族の一人が介護を必要とする状況が近づくと、「忙しい」というワードをあちこちで聞くようになります。
こういった状況の時にもっとも楽なのが、「普段は忙しいから、何かの時に何かを持ってたまに会いに来る」という立ち位置ではないでしょうか?

こういった時のセオリーは、「一緒に住んでいる」「家が近い」「末っ子」といった関係の人が、要介護者の面倒の大半を見ることになります。
そして、介護者の「なぜ自分ばかり」と「見て見ぬふりはできない」という気持ちがぶつかり合わさると、家族間の亀裂に発展していきます。

要介護者に対し、家族皆が同じだけの気を配っていたのかもしれませんが、やはり直接的な介護する人だけは大きく違う気がします。
この違いには、「そばでその病気の進行を直接的に見続けていなければ、それは決してわからない」という大きなポイントがあります。
人は誰でもポジティブな心でいつづけたいと思うものですが、見続けるというのは「進行が終わるまで同じ時間を共有し続ける」ということでもあるのです。

直接的な介護

「終わるまで」とすると少し語弊がありますが、「進行が終わるまで同じ時間を共有し続ける」というのは、仕事としての介護にも同じことがいえます。

介護の仕事に携わっている方であれば、「直接的な介護」なのかというと、そうではありません。
ある程度の年齢を重ねた職員や、怠け者にとって現場は過酷な肉体労働です。
スーツを着た介護施設などの社員が「何かあったらいつでも呼んでくださいね」と利用者に対し言うことは簡単なことですが、現場としては、何かがある度に呼ばれていたら利用者一人に対し介護士一人という状況を作らない限り簡単にはできません。

つまり、介護事業所で働く職員であったとしても、最低でも3年は介護士として現場を経験しなければ、「介護」どころか現場のことなどほぼ何もわからないのです。

中と外のジレンマ

家族介護でも仕事としての介護でも、中には外はわからず、外には中がわかりません。
介護事業者側が「なぜそんなこともできないのか?」と思えば、現場側は「じゃあ夜勤から早番までしばらくやってみろよ」と思います。
現場もろくに経験したこともない上司に、ピントのずれた提案や要求をされるというのは、現場側からすると絶望的なものがあります。

  1. 直接現場にかかわらない介護事業所の職員→介護士
  2. 家族→介護施設
  3. 主となる介護者以外の家族・親族→主となる介護者

中と外のジレンマは、上の3つの状況の時に顕著に現れます。
そして、ここで厄介になるのが「直接的な介護を少しだけ経験したことがある」という方です。
「直接的な介護」をちょっとかじっただけの人は、現実よりも理想を求め、倫理で相手を追い込もうとしてきます。
もちろん、追い込もうなんてつもりはないと思いますが、倫理は時に現実の道標さえも惑わします。

仕事としてする「介護」では、

  • 時として優しさが長期的な目標の抵抗になる
  • 利用者への感情移入が適切な判断に影響してくる
  • 引き受けたがために通常業務に支障が出る

といったことも多々あります。
「家族介護」では、親戚やたまに会いに来る家族のアドバイスでさえ、介護者にとってはナーバスな状態を針で突つかれているようなことにもなりかねます。
心ない親族などによっては、介護者の「介護」そのものを否定され、やりきれないような思いに「生きること」自体に疲れてしまっている方も少なくはないはずです。
進行する病気をそばで支え、気力を失っていく中で、自分の介護を評価してもらえず、「生きること」自体に疲れると、やはり考えることは一つです。
要介護者が認知症であれば、介護者の努力も空振りになったり、お互いにとって逆効果になることもあります。
そして、大きな節目を迎え、要介護者が家から離れた時、介護者は開放感と同時に強い虚無感に襲われます。

その後に残るものは、「介護疲れ」といううつ状態です。
結局、それら全ては介護者本人以外には誰にもわからないことであり、これからも一人で抱えて生きていくことになります。

大切なのは、介護者の気持ちを理解してあげる周りのサポートなのです。

腑に落ちる家族介護

「忙しい、忙しい」と家族の介護を放棄する人と、進行が終わるまで直接的に介護をする人は、なかなか分かり合えないものです。
家族介護を直接的にしていると、「忙しいって言われても、少しくらい手伝ってくれなければ、私の時間がなくなっちゃう」という気持ちがまず出てきます。
こういった状況で「腑に落ちる」ためには、家族介護の種類達観的視点を知ること、そして直接的な介護をする介護者の状態を周りが理解するということが大切です。

家族介護の種類

家族介護は以下のように大きく2つに分けることができます。

  1. 経済的な支援
  2. 直接的な介護

そして、直接的に介護をする人も大きく2つに分けることができます。

  1. 介護で一杯一杯な人
  2. 良い距離感を保てる人

家族介護の大変さは、要介護者の症状や思考・介護者の受け止め方がポジティブネガティブかでだいぶ変わってきます。
認知症であれば、「物を取られた」「徘徊」といった症状はいわゆるネガティブですが、認知症の方によっては常に笑っているポジティブな方もいれば、静かに何かをし続けているような方もいます。

達観的視点

人は、自分の苦労や倫理観をものさしとしてしまいがちです。
挨拶をまめにする人は、挨拶をしない人に対しシビアな目で見てしまいます。
介護士でも、「あの利用者はまだしっかりとしているんだから、もう少し家族が面倒見てあげればいいのに」と思ってしまいがちですが、人には人の事情があるということを考えるだけで、結構おおらかな気持ちになれるものです。

介護者の状態を周りが理解する

主となる介護者の状態を周りが理解するということは、最も大切なことなのかもしれません。
家族介護は大変なもので、要介護者の病気の進行により、介護者は心身ともに疲れ、やつれていくものです。

要介護者の病気の進行を一緒に受け止め、同じ時間をともにすることで、いつしか思い入れが強いものとなり、その終わりとともに「もう疲れた」「何をする気力もない」「死にたい」そう思うことがあっても、それは不思議な事ではありませんし、それだけ直接的な介護というのは大変なことなのです。
主となる介護者でなければ、その大変さは理解できないものだと思いますが、周りが理解しようとすることで、その状況は大きく変えられるとも思います。

「介護生活で疲れている」そして「繊細でナーバスな状態になっている」という2つは、介護者を理解する上で大きなポイントとなり、理解を超えたサポートともなりえます。
間違えてはいけないのが、「介護者を否定する」という言動です。

もし、継続性のある直接的な介護ができないのであれば、継続性のある直接的な介護をしている介護者の全てを、残りの家族は肯定し受け入れなければ、その関係性はより複雑なものとなります。

まとめ

介護の中と外には、大きな違いがあります。
そしてそれは「自分の時間をどれだけ家族の直接的な介護に費やしたのか」という経験でしか知ることのできないものです。

家族介護、仕事としての介護、そのどちらであっても、進行していく病を持つ方のそばにいるということは大変なことです。

ですが、上手にやっている人も世の中には多く存在しています。
その上手にやっている人に共通しているのが、真に受け過ぎないということです。
なかなか簡単なことではないのですが、上手にやっている人を見ればできそうな気もしてくるものです。

冒頭の「私の桜に対しての興味が薄れた原因」は、仕事の関係上、目黒川のあたりを行ったり来たりするためです。
そうなんです、人があまりにも多すぎて、嫌気から桜に対しての興味が薄れていきました。
もちろん毎年の事なので、「それが普通」といったところなのですが、今年は嫌な周期と重なってしまったこともありました。

私の母は、これで3回目の危篤となりました。
毎年1回づつのペースできているので、もう肝も座っていますが、今回は「延命治療をしない」という正式な手続きをする時が迫ってきているため、今年は特別複雑な状況です。

以前より、「延命治療をしない」ということは家族で話し合い決めていたのですが、施設にいる母に「大丈夫だよ」と伝えて帰るときには胸が締め付けられる思いになります。

今回の記事を涙ながらに読んでくれた方がもしいるのであれば、それが私にとって最も幸せなことかもしれません。

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kumo

他も見てみたいという気持ちから特養、有料、ショート、デイ、訪問入浴で働いてきました。 特養では介護職として、デイサービスでは立ち上げから運営、そして現在は都内の施設で現場もこなす生活相談員として働いています。 自分の家族介護と介護士としての介護の経験が少しでも介護に悩む方の力になれたらと願っています。
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